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つらつら草~平行読書中。

主に読んだ本のことについて書くと思います。

トーマス・マンの散文性~『ヨゼフとその兄弟たち』の印象~

近現代ドイツの著名な作家トーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』をちらりと読んで、なんとなく思ったことがあるので書いてみる。というより、考えながら書いている。

 

冒頭から引用する。

 

過去という泉は深い。その底はほとんど測り知られぬと言ってもよかろう。

~中略~

・・・・・・けだしこの究めつくしがたい過去というものは、われわれの探究心にとっては、鬼ごっこの絶対につかまらぬ鬼の如きものである。やっと見つかった区切りや終着点も、実はただ仮初(かりそめ)のものであるにすぎず、いざそこまで行き着いたとなると、その背後には又もや広漠たる過去が打展けてくる。汀(みぎわ)を歩いて行く人が、視野をかぎっている粘土質の砂丘に辿りついてみると、その背後には必ずいつも新たな眺望が展けているので、ついつい誘われて次々と新たな砂丘を目ざして歩きつづけ、いつまで歩いても終点に辿りつくことがないというのに似ている。

トーマス・マン『ヨゼフとその兄弟』

 

下線は私の手によるものである。

私はこの部分を読んだときにこう考えた。《この喩えは一見やや詩的な表現に見えるが、実はこの喩えを挿入するという行為そのもの、また語の使い方などを鑑みるに、やはりトーマス・マンは本質的な散文家なのではないだろうか》ということである。これは彼の創作歴などをみれば極めて当然のことであるのだが、実際にその作品にあたってみて深く感得できた。

 

それはどういうことか?

 

確かに、過去の果てしなさを汀を歩く人の話に喩えるということ自体は一見詩的なものに感じられるが、詩的である、とは詳しくわかりやすく説明することと少し違う。ここで作者は過去というものの深さをよりわかりやすくしようとしてこの喩えを挿んだのではないか。もちろん、詩的な効果を狙う意味もあったかもしれない。

しかし、それにしては『粘土質』という語は散文的である、と直感的に私は思ったのである。別に詩的言語や散文的言語は明確にわけられていないし、わける必要も特にない。だが、《トーマス・マンは『粘土質』という言葉を用いることによって、ここで硬質で正確で明解な散文的効果を狙ったのではないか?》という推測が頭に浮かんだ。

さらに私は『粘土質』という言葉に近代性をみる。分析的、理知的な表現語としてのこの語は、『汀を歩く人』の近代性より、『汀を歩く人』を俯瞰している筆者がまぎれもない近代的自我(あるいは理性)を持っているということをあらわしている、と考える。つまり筆者の時代性をあえて露呈させている。ここには彼の創作態度の一端がうかがえる。すなわち、過去の、どれほどのスケールの物語を描こうとも、自分は近代人の立場から描いている、という隠れた意識である。旧約聖書の一節を題材にとったというこの作品においても、彼は新たな神話ではなく、あくまで近代(もしくは現代)文学を目ざしていたのではないか?

トーマス・マンが詩的なものと散文的なものの関係をどのように考えていたかはわからないが、少なくともこの冒頭の数行からは優れた散文性と深みを持った『小説家:トーマス・マン』がみえる。

 

そしてこれはこの文章を書きながら考えたことだが、私は《彼は極めて高い次元で詩的なものと散文的なものの調和を成し得ているのではないか?》という、おそらくトーマス・マンが好きな人なら当然のこととして感じている感興を持っている。これは単なる予想であるが、しかしそれほどまでになにか好ましいものを感じた。

 

もっとも、私は『魔の山』を読んで序盤で滑落したクチであるので、トーマス・マンの全体的な仕事はわからない。繰り返すが、これは確信ではなく予想である。

だが《部分は全体をあらわす》という言葉を信じれば、彼の非凡さは既にこの『ヨゼフとその兄弟たち』の冒頭に垣間見えるといえそうだ。

 

 それにしても、冒頭の数行でこれほどの印象を与えてくるトーマス・マンについていちいち言及していたら、どれほどの文字をうつ必要があるのだろう?

 

 

トーマス・マン全集〈4〉 (1972年)

トーマス・マン全集〈4〉 (1972年)

 

 

 

トーマス・マン全集〈5〉 (1972年)

トーマス・マン全集〈5〉 (1972年)