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つらつら草~平行読書中。

主に読んだ本のことについて書くと思います。

ブログを書く理由

今週のお題「私がブログを書く理由」

ちょうど始めたばかりなのでお題について書いてみたくなった。

ブログを書くのは言うまでもなく「備忘録」と「考えを共有する」という二つの理由からである。

 

ある考えが浮かぶ。すると、記録しない限りその考えは永遠に失われてしまう。多くの考えは何の変哲もないものだが、それでも保存しておかないともったいない気がしてくる。

 

また、たとえ何の変哲もない考えであっても、他者と共有することによって新しい広がりが生まれることもある。そんな化学変化を楽しみたい。

 

つまりごく個人的な理由とコミュニケーションツールとしての理由との二つである。パッと思い浮かんだのはそのようなものだ。

他にも理由があるのかもしれないが、それはおいおい気がつくだろう。やっているうちに気がつくこともあるものだ。

断章

詩はある程度の「短さ」がないといかんと思う(変な言い方だ)。これは個人的な好みである。しかしブログの場合はそんなに短い文章で済ますわけにはいかない。ツイッターのようになってしまうからである。そういった使い方をしている人もいるかもしれないが。小説にもある程度の長さが必要なのかもしれない。少なくとも短すぎると小説といわれなくなってしまう恐れがある。←いままでの文章でやっとツイッターを少し超えた程度。一万字も十万字も書くことは大変骨が折れるだろう。

 

読書に自分で一定の戒律を設けるのは有意義かもしれない。今日、これからしばらく読んでいく本を数冊決めた。といっても、すぐに読むのをやめてしまうかもしれないが。どうしても相性というものがある。たとえば、恋愛小説、姦通小説の類が少し苦手である。べつに嫌いだったり、生理的嫌悪をもよおすわけではないが、読んでいるうちに、ああ、これは、なにも時間をかけて読むことはないな、という気になってしまうことがある。しかし(大)名作と呼ばれているものにはこのジャンルが多いのも確か。曰く、源氏物語、ボヴァリー夫人、紅楼夢、若きウェルテルの悩み、ノルウェイの森、などなど、実際、この中に通読を断念しているものも、ある。というより紅楼夢は読んだことすらなく、ほかの作品は通読を断念した。なぜか。おそらく相性だろう。

 

あまりにも有名すぎる作品はあらすじを読む前に知ってしまい、読みずらくなることがある。そんなとき心を無にして読むことができればいいのだが、そんな難しいことなどできないことの方が多い。自然、隠れた名作というものを探すようになる。しかし隠れているのでなかなか見つからない。

 

寡作だったり、一発屋の作品を読むのは少し寂しい。その作家の世界が、それだけ狭いものである場合があるからだ。だが、寡作でも一発屋でも、大きく広い世界を創造している作家もいるだろう。

 

あまり考えたことはないが、文明文化は文学と命運をともにすると思う。衰退か、隆盛か。すべては互いの相乗効果だ。

部屋を検索

読書をするより、本の場所を入れ替えるほうが多いかもしれない。特に最近はつとにそうだ。あの作品のあの部分を読みたいと思ったときにすぐ近くにないと、何事もはかどらない。だから読みたくなりそうな本は手元に置く。しかしときどき自分でも意外な本が読みたくなったりする、そんなときは、部屋の本の位置が大きく変わることになるのである。部屋のどこに狙った本があるか知れないので、大整理になる。すぐ見つかることもあれば、なかなか見つからないときもある。そんなときの方が、下手をすると読書そのものより楽しいかもしれない。

インターネットのように部屋の全ての本の位置を一瞬で検索できたらこんな便利なことはないが、楽しみの一つが減ってしまうかもしれない。

折口信夫、安部公房、三島由紀夫の「詩」を読む

 

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いきなりパッとしない写真で失礼。上の画像は左から『三島由紀夫全集37』、『折口信夫全集23』、『安部公房全集1』である。上記のほかに幸田露伴なども持っている。折口信夫は国文学者で歌人、安部、三島は小説家である。念のため。

 

ちょっと変な収集を以前から続けている。それは、「詩人としてはあまり有名でない(知られていない)作家」の全集中、彼のものになる詩が収められている巻だけを集めるというものだ。それも、基本的に自由詩。ここまで絞るとだいたい数は限られてくる。ただし、これらは「縛り」ではなく、方向性だ。・・・あちこち探すと全集が中古でばら売りになっていることも多いため、そんなに難しいことではない。こういった試みをしている人がほかにいるのか、それはよくわからない。

なぜこんなことを始めたのか?

おそらく、頭の隅にあったのは、確か石川淳芥川賞の講評で「詩と散文の境目」について語っていたことがあったのではないかと思う。いつの講評であるかは忘れてしまった。ネット上で読んだので、今も読めるかもしれない。

小説家(散文家)の書く詩とは、どんなものなのか?

そんな疑問が浮かんできた。そこで、好きな作家や、面白そうな作家の全集をピンポイントで集め、鑑賞したく思ったのである。

和歌や俳句を除いたのには意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。自分でもよくわからない、勘である。

自由詩の良さは、その人の観念や思想を簡潔に、そして直截に表せることだろう。そして新たな韻律を創造することができる点である。

自分は詩の良し悪しを断言できないので、彼らの詩がはたしてどれほどの意力や叙情をもつのかは知らない。しかし彼らの詩を読んでみると、その生涯の主題や切実な叫びが凝縮されていることが多いのに気付くのである。

三島由紀夫は6歳からの詩が残っている。

安部公房の詩の多くは10代から20代前半のものだろう。

折口信夫は生涯にわたって自由詩をものしているようだ。

このように様々なアプローチで彼らは詩と向き合っている。

これからもひっそりとそんな詩を集め続けるだろう・・・。

 

同じように「詩人の小説(散文)」という主題もある。これはまた別の話・・・。

 

このブログではおおむね主観的に文学やそれに類するものについてアプローチを行っていきたい。一気に書いてしまったので誤字脱字、誤謬のたぐいがあるかと思いますが、最後までお読みいただきありがとうございます。