つらつら草~平行読書中。

主に読んだ本のことについて書くと思います。

山と海の異形たち

山海経……『せんがいきょう』、または『さんかいけい』と読むらしい。

 

表紙の説明には、

「中国古代の地理書。著者は不詳。最も古い部分は

戦国時代(紀元前5‐3世紀)に成立し、

その後、秦・漢(紀元前3‐後3世紀)にわたって

他の部分がつぎつぎと付加されていったとされる。

洛陽周辺の山々と、そこから四方に伸びる

山脈を考えた「五臓山経」、その周囲に存在すると

考えられた国々のことを記した

「海外経」「海内経」など、18巻よりなる。

各地の山川に産する草木・鳥獣・虫魚、

そこに住む鬼神・怪物の記述は空想的かつ怪異な

ものが多く、中国の古代神話を知るうえで

貴重である。晋の郭璞(かくはく)が注を加え、

清の郝懿行(かくいこう)によりさらに詳細な

注と校定がなされた。」

とある。

 

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

 

 怪力乱神を語る。

 

 

 

 

一万の一千一秒物語

 稲垣足穂、イナガキ・タルホーー彼の『一千一秒物語』はこんな口上からはじまる。

 

さあ皆さん どうぞこちらへ! いろんなタバコが取り揃えてあります どれからなりとおためし下さい

 

 そう、これは魔法のタバコなのだ。のんでいるあいだは幻を観られる、とっておきのタバコなのである。

 

 『一千一秒物語』のように、この話は短く終ろう。

 ではグッドナイト! お寝みなさい。

 

一千一秒物語 (新潮文庫)

一千一秒物語 (新潮文庫)

 

 

 

天体嗜好症: 一千一秒物語 (河出文庫)

天体嗜好症: 一千一秒物語 (河出文庫)

 

 

 

一千一秒物語―稲垣足穂コレクション〈1〉 (ちくま文庫)

一千一秒物語―稲垣足穂コレクション〈1〉 (ちくま文庫)

 

 

 

稲垣足穂全集〈1〉一千一秒物語

稲垣足穂全集〈1〉一千一秒物語

 

 

 

一千一秒物語

一千一秒物語

 

 

雪は頬に触れて涙の如く、己れへ還るしかない孤独に。

燭は孤独を描く……

 

埋れた街々の夜を渉る幽かな鐘の乱打が、

悶え噎び遠く吹雪の葬列に送られてゆく。

 

(中略)

 

過ぎ去る後姿(うしろすがた)に立ちて君を送り、

払へど雪は頬に触れて涙の如く流れる。

 

この夜、吾が生の簒奪者に対つて拳銃を祈る!

 

吉田一穂『死の馭者』

 

  その人によって、いつまでも心に残る詩句というのは様々だろう。私の場合、上記の詩がそれだ。特に【過ぎ去る……】の連はいままで読んできた近現代詩の中でも類をみない「うつくしさ」があると感じる。私は詩に対して必ずしも「うつくしさ」を求めない。詩は美の追求の為だけにあるものではないと考えるからだ。しかし、この作品のような詩句に出会ってしまうと、やはり詩の中には美が存在し得ると確信することができる。それは私にとって嬉しい驚きだ。

 

 詩である、とはなんだろうか。それは心に刺さった棘のようなものではないだろうか。と、「詩的」に表現しようとしても、こぼれ落ちていくなにかがそこにはある。深く考えようとすればするほど、深みにはまっていくだけであるともいえる。まとまった考えを述べるには時間を要しそうだ。

 だが詩人はときに重要なヒントをくれる。

 

燈(ラムプ)を点ける、竟には己れへ還るしかない孤独に。

 

吉田一穂『白鳥』より 

 

 そう、【己れへ還るしかない孤独】に【燈(ラムプ)】を点すことこそ、詩をつくり、感じることの意味かもしれない。

 

 

吉田一穂詩集 (岩波文庫)

吉田一穂詩集 (岩波文庫)

 

 

トーマス・マンの散文性~『ヨゼフとその兄弟たち』の印象~

近現代ドイツの著名な作家トーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』をちらりと読んで、なんとなく思ったことがあるので書いてみる。というより、考えながら書いている。

 

冒頭から引用する。

 

過去という泉は深い。その底はほとんど測り知られぬと言ってもよかろう。

~中略~

・・・・・・けだしこの究めつくしがたい過去というものは、われわれの探究心にとっては、鬼ごっこの絶対につかまらぬ鬼の如きものである。やっと見つかった区切りや終着点も、実はただ仮初(かりそめ)のものであるにすぎず、いざそこまで行き着いたとなると、その背後には又もや広漠たる過去が打展けてくる。汀(みぎわ)を歩いて行く人が、視野をかぎっている粘土質の砂丘に辿りついてみると、その背後には必ずいつも新たな眺望が展けているので、ついつい誘われて次々と新たな砂丘を目ざして歩きつづけ、いつまで歩いても終点に辿りつくことがないというのに似ている。

トーマス・マン『ヨゼフとその兄弟』

 

下線は私の手によるものである。

私はこの部分を読んだときにこう考えた。《この喩えは一見やや詩的な表現に見えるが、実はこの喩えを挿入するという行為そのもの、また語の使い方などを鑑みるに、やはりトーマス・マンは本質的な散文家なのではないだろうか》ということである。これは彼の創作歴などをみれば極めて当然のことであるのだが、実際にその作品にあたってみて深く感得できた。

 

それはどういうことか?

 

確かに、過去の果てしなさを汀を歩く人の話に喩えるということ自体は一見詩的なものに感じられるが、詩的である、とは詳しくわかりやすく説明することと少し違う。ここで作者は過去というものの深さをよりわかりやすくしようとしてこの喩えを挿んだのではないか。もちろん、詩的な効果を狙う意味もあったかもしれない。

しかし、それにしては『粘土質』という語は散文的である、と直感的に私は思ったのである。別に詩的言語や散文的言語は明確にわけられていないし、わける必要も特にない。だが、《トーマス・マンは『粘土質』という言葉を用いることによって、ここで硬質で正確で明解な散文的効果を狙ったのではないか?》という推測が頭に浮かんだ。

さらに私は『粘土質』という言葉に近代性をみる。分析的、理知的な表現語としてのこの語は、『汀を歩く人』の近代性より、『汀を歩く人』を俯瞰している筆者がまぎれもない近代的自我(あるいは理性)を持っているということをあらわしている、と考える。つまり筆者の時代性をあえて露呈させている。ここには彼の創作態度の一端がうかがえる。すなわち、過去の、どれほどのスケールの物語を描こうとも、自分は近代人の立場から描いている、という隠れた意識である。旧約聖書の一節を題材にとったというこの作品においても、彼は新たな神話ではなく、あくまで近代(もしくは現代)文学を目ざしていたのではないか?

トーマス・マンが詩的なものと散文的なものの関係をどのように考えていたかはわからないが、少なくともこの冒頭の数行からは優れた散文性と深みを持った『小説家:トーマス・マン』がみえる。

 

そしてこれはこの文章を書きながら考えたことだが、私は《彼は極めて高い次元で詩的なものと散文的なものの調和を成し得ているのではないか?》という、おそらくトーマス・マンが好きな人なら当然のこととして感じている感興を持っている。これは単なる予想であるが、しかしそれほどまでになにか好ましいものを感じた。

 

もっとも、私は『魔の山』を読んで序盤で滑落したクチであるので、トーマス・マンの全体的な仕事はわからない。繰り返すが、これは確信ではなく予想である。

だが《部分は全体をあらわす》という言葉を信じれば、彼の非凡さは既にこの『ヨゼフとその兄弟たち』の冒頭に垣間見えるといえそうだ。

 

 それにしても、冒頭の数行でこれほどの印象を与えてくるトーマス・マンについていちいち言及していたら、どれほどの文字をうつ必要があるのだろう?

 

 

トーマス・マン全集〈4〉 (1972年)

トーマス・マン全集〈4〉 (1972年)

 

 

 

トーマス・マン全集〈5〉 (1972年)

トーマス・マン全集〈5〉 (1972年)

 

 

三島由紀夫による、古典へのいざない『古典文学読本』

三島由紀夫の『古典文学読本』を簡単に読んだ。

一読して、忘れかけていたあの典雅な古典の世界の魅力を思い出した。これは良いアンソロジーである。

 

古典文学読本 (中公文庫)

古典文学読本 (中公文庫)

 

 

 彼は特異な作家であり、優れた批評家だった。そのことを再確認させてくれる。私は、彼の文学の読み方が好きだ。彼はまだ言葉にされていないことをあえて言葉にしようとする。古事記に描かれた夫婦神の最初の過ちについての『相聞歌の源流』など読むと、彼のもどかしさがよくわかる。とても好きな文章だ。『変質した優雅』もそう。彼の評論にはダイナミズムがある。彼が古典について語る時、その語りは徐々に高まってゆき、いざ現代について語る段になると、その勢いは突然ディミヌエンドし始める・・・・・・。面白い作家だ。単なる懐古趣味ではない。この作家は本当に現代に絶望している。ポーズではない。本気だった。

私は和歌に詳しくないのだが、どうやら彼は古今和歌集の美に注目していたらしい。また、新古今和歌集は妖しきデカダンの美だとも。

生きていれば今年で91歳。彼の作品もやがて『古典』になるだろう。

ブログ名を変えました。

というわけで、ブログ名を変更しました。「つらつら草」改め「つらつら草~平行読書中。」へ。

平行読書というのは、前回ブログに書いたムージルの「特性のない男」の中に出てくる「平行運動」というワードから勝手に思いついたのですが、幾つかの本を並行して読むことが多いので、並行読書、いやわざと平行読書でいいか、ということでこのような名前に決めました。

これからもちょくちょく更新していきたいと思います。よろしく。

二人のローベルト(ムージル・ヴァルザーを少し齧ってみて)

最近、ローベルト・ムージルとローベルト・ヴァルザーの作品を少しずつ「齧っている」。奇しくも同じファーストネームだ。よくある名前なのだろうか。詳しく知りたい方は、二人ともwikiに簡単な記事があるから参考にしてほしい。読んでいるのはムージル「特性のない男」とヴァルザー「タンナー兄弟姉妹」である。

 

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

 

 

 

ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹

ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹

 

特性のない男は、ウルリヒという、題名の通り「特性のない男」が主人公。父親が偉い役人かなにかだったと思う。一応、職業は「数学者」。何事にも才能がないわけではない彼が、女性と関係を持ってみたり、愛国的運動に巻き込まれたり、猟奇殺人犯の弁護をしたりする。唯物論的民主主義という言葉ははじめて聞いた(それはおそらくこの話のメインではない)。どこか皮肉気な、しかし嫌味はないムージルの書きっぷりは好ましい。けっこう長いが、未完だという。面白ければ未完でも関係はない。わりと読みやすいので全部読んでしまおうか? 何年後になるか・・・・・・。

 

「タンナー兄弟姉妹」の主人公の名はジーモン。まだ物語が動き出していないが(はたして動き出すのかどうかさえ分からないが)、一つの職業に留まっていられない性分らしく、長広舌をふるって自分を売り込んでは、ある日突然辞めていく。いろいろな場所を転々としている。ちゃんと兄弟姉妹も出てくる。ジーモンの性格が面白い。会話が長いが、読みごたえがある。全体的な雰囲気として、どこかユーモアがあるのははやはり好ましい。

 

 二人とも、ドイツ語圏で、カフカと同時代くらいの作家らしい。両方とも序盤を齧った程度だが、主人公がどこか浮世離れしていて、魅力的(?)なところが似ている気もする(そのような主人公は様々な作品にいるだろうが、その力の抜け具合というか、なにか素っ頓狂なところが近しいと思った)。カフカとも共通点があるのだろうか? しかし彼の作品にある孤独や寂寥はこの二人の作品からはまだあまり感じない。読み進めていくうちになにか気づくかもしれないが。

 

カフカと比べると知名度はだいぶ劣るだろうが、完成度(未完の作品もあるが)や面白さに遜色はない。秋の夜長にどうですか。